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Homeマラッカガイドマラッカの歴史>マラッカ王朝の繁栄と朝貢(前編)
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時は西暦1400初頭、マラッカ王国を建国したばかりのパラメスワラ国王はスマトラ島シュリヴィジャヤ王国(現在のパレンバン)から引き連れてきたわずかばかりの家臣たちと「オラン・ラウト」と呼ばれていた海の民(漁師)たちと共に先の見えない国の将来を憂い、策を練る毎日が続いていた。

当時、現在のインドネシアを制圧していたマジャパヒト王国。それに北には「シャム」と呼ばれるアユタヤ王朝(現在のタイ王国)が勢力を伸ばしつつある危険きわまりない状況におかれていた。まさに前門の虎後門の狼に脅えながら建国を進めようとしていたのでR。

建国当時のマラッカは「国」というより、貧しい漁村の「港町」と呼ぶのにふさわしい様相であった。このおかげで強国からの侵攻を受けずに港の整備を進めることができたのも事実である。やがて、この地域を通過する通商交易船が寄港するようになり荷の積み卸しや食料・飲料水の補給、それに入港税の徴収などによりマラッカ王国は緩やかに成長を続け、豊かな国になろうとしていた。
王国成立直後のマラッカ。世界に名だたる貿易港というより貧しい漁村の港という感じですな
儲かりはじめたマラッカ王国のウワサを聞きつけたアユタヤ王朝はさっそく使者と軍隊を派遣し、国王に面会を求め武力で威嚇しながら「毎年、上納金として金の延べ棒四百本を納めるように!」と申し渡した。21世紀の現在、日本で同じコトをすれば国際的な恐喝(きょうかつ)組織として警察などの組織が取り締まってくれるはずだが600年前の東南アジア地域では強大国が、弱小国から金品を献上させるのは日常茶飯事、ごく当たり前のことであった。

やっと、国らしく港湾事業が利益を生み出し、税収が取れはじめたのに儲けのほとんどを献上しなくてはならないパラメスワラ国王は、まさにトホホ状態。「嫌です」と言って要求を断れば武力による侵攻は避けられない。背に腹は代えられない気持ちで四百本の金塊を毎年献上していた。東南アジアに強い影響力を持つ大国アユタヤ王朝は、新たなる資金源の登場にニンマリするしかなかったんでしょうな。

しかし、こんな状況に転機が訪れた。極東地域の眠れる獅子「中国」に明(みん)王朝が成立、1402年に即位した3代皇帝の「永楽帝」(えいらくてい)は積極的な海洋政策を計画した。永楽帝のアイデアは海洋交易により明王朝を繁栄させるのが狙い。そして海のシルクロードの建設に取りかかっていた。砂漠を渡るときにオアシスが必要なように、海上交易の為には信頼できる「港」が必要不可欠。マラッカは東西の海上交易のためぜひとも味方に取り入れたい重要な補給・通商中継港だった。

永楽帝が即位した翌年1403年には明国よりの最初の公的使者「イェン・チン公使」がマラッカに到着した。渡りに船とはまさにこういうコトなんですな。南北をグルリと強大国に挟まれ恐喝まがいの献金を続けていたパラメスワラ国王は、この使者に明国との安全保障条約を申し入れた。海のシルクロード建設を急ぐ明王朝と、強大国の防衛力を身につけたいマラッカ王国の利害は一致。イェン・チン公使は永楽帝に意見を仰ぐと言い残し、ニンマリしながら帰路についたのでR。(*^_^*)

マラッカ王国の成立が「1403年」という歴史の記述はこの明国の公使が正式に訪問した時期を指している。パラメスワラ国王が天然の良港マラッカに都を宣言したのが1396年。マレーシアの歴史の教科書には後者のパラメスワラ国王宣言説を採用して「建国は1396年」と記載されている。当サイトではこの教科書の記述を信じ1396年建国としている。
アユタヤ王朝は、栄華を極めたがビルマの侵攻により都市や仏教芸術はことごとく破壊された。現在はユネスコ世界遺産の指定を受け修復と保存が進められている
蛇足だが、1350年に成立したアユタヤ王朝は1378年の戦いでスコータイ王朝を制圧、属国としその後400年以上栄える。マラッカ王国成立時には東南アジアの雄としてその力を誇示していた。栄華を極める王室の金銀や宝石などの財宝は周辺国から貢がせていたのだろう。しかしビルマの侵攻によりアユタヤ王朝は1767年に滅亡した。占領軍ビルマによりアユタヤの都市、仏教美術は執拗なまでの破壊を受け、当時の面影は見る影もなく廃墟と化した。

さて、本国南京(当時の首都)で使者の帰りを待つ永楽帝は明王朝の国威を示す桁外れな計画を推進していた。大船団を組織し、海のシルクロード通過各国・重要港に使節団を送り、その威信を津々浦々にとどろかせるのが狙いである。桁外れな大船団を組むため船の増産、その中でも旗艦(指揮者の乗る船舶)には史上最大最強、最新鋭の技術が注ぎ込まれた。

こうして完成された旗艦は「宝船」と名付けられた。船の長さ150メートル、幅62メートル、9本マスト。この船は現在の8000トン級に相当するまさに史上最大の巨大帆船であった。大船団は62隻で編成され、総乗組員は2万8500名。約百年後、喜望峰を廻ったヴァスゴ・ダ・ガマの旗艦は120トン級が3隻170名。コロンブスの船団は250トン級が3隻、88名の乗組員だったコトから想像していただきたい。明王朝はヨーロッパが大航海時代を迎える百年以上も前に、大遠征のための遠洋航海船舶を造る技術を誇っていた。
大船団は62隻で編成され、総乗組員は2万8500名なり。コレだけの陣容を誇る大艦隊だったが武力による侵略を目的とせず国威を示し朝貢を促進させるための遠征であった
1405年6月、永楽帝の命により第1次航海へと出る。旗艦を指揮する最高司令官には永楽帝お気に入りの海軍大将「鄭和」(日本語読み「ていわ」・中国読み「チェンホー」)が推挙された。旗艦は三層から成り立っており、下から倉庫層、真ん中が居住層、上階には腐葉土が敷かれ家畜の飼育、各種野菜が栽培され船団の乗組員たちの食料を自給自足していたのでR。

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